雲西寺は、その昔、豊前一帯を支配していた源氏の系譜を継ぐ宇都宮家の者が開いた天台宗の寺院でした。彼は京都比叡山にて修行を積み、教安という名の僧侶となりました。 後に九州にやってきて、豊前国下毛郡中郷・河津野庄に止り、落合山登護院という寺院を創立しました。 その登護院の五代目の名は西久法印といいました。 五代西久(地頭・西彦右左衛門入道)は元亀2年(1571年)天台宗より浄土真宗に帰依し、以来、現在まで法灯を継承しています。 ある時、西久が書院にいたとき、庭に紅楳あってその紅楳の木に白い鳩が来てこう告げたそうです。
「西久汝能く開け、汝は宿世の因縁深く仏教に帰依し、伝道の念厚く衆生済度の志あり。よって汝に有縁の教法たる弥陀の本願を弘宣すべし」
との言葉を夢にみました。これを心の底から受け止めた西久は、「法のため、心づくしの山中に我も移りて幾世守らむ」という一首をつくり真宗の創立を決意しました。 以後19代の継承に至ります。
<建物の歴史> 雲西寺本堂は初代西久が建立し、三代浄空が再建しました(貞享2年、1685年)。十二代普寂が再々建し、(明治15年)、現在に至ります。境内は、横17間、縦40間です。 境内の経堂は経文数万巻を数え、安永7年(1778年)に建立されました。鐘堂は元禄年間に建立され、当寺では一番古い建物になります。山門石塀は元禄年間に建立し、現在に至っております。また、山門並びに鐘堂の鬼瓦には奥平10万石の軍配の紋が使用されており、文書によれば中津城主の奥平家のお輿(こし)があったとのことです。
<人物の歴史>
第5代・6代住職の鳳天・天林は、勤修寺で権大僧都を任じられました。雲西寺から養子に出て、中津市の田丸山長久寺住職となった慶忍は、本願寺勧学になりました。
十七代住職紅楳 英顕(こうばい えいけん)は、本願寺司教であり、相愛大学名誉教授であります。
中津城主奥平家の家紋
奥平唐団扇
初代 西久 (開基者) | 第11代 崇興 |
第2代 恵空 | 第12代 普寂 |
第3代 浄空 | 第13代 端厳 |
第4代 浄周 | 第14代 宗英 |
第5代 鳳天 | 第15代 英男 |
第6代 天林 | 第16代 世英(住職の祖父) |
第7代 天津 | 第17代 英顕(住職の伯父) |
第8代 太律 | 第18代 鳳天(住職の父) |
第9代 乗願 | 第19代 聖英 |
第10代 普明 |